犬の胸腔鏡下心膜切除術|心タンポナーデ・胸水貯留に対する低侵襲治療
はじめに
愛犬が呼吸困難や元気消失を起こし、検査の結果「心臓の周りに水が溜まっている」と診断されたとき、多くの飼い主様は大きな不安を感じられることでしょう。このような状態に対して行われるのが心膜切除術です。
従来は大きく胸を開く開胸手術が必要とされてきましたが、近年では胸腔鏡技術の進歩により、わずか5mmの穴3つで手術が可能となり、動物たちの負担を大幅に軽減できるようになりました。
この記事では、当院で先日実施した犬の胸腔鏡下心膜切除術の症例をもとに、この手術の重要性とメリットについて詳しく解説します。
心膜切除術とは?
心膜の役割
心膜とは、心臓を包んでいる薄い膜状の構造物です。二層構造になっており、心臓と外膜の間には少量の液体(心膜液)が存在し、心臓の動きをスムーズにするクッションのような役割を果たしています。
心膜の主な役割:
- 心臓を保護する
- 心臓の動きを滑らかにする
- 心臓の位置を固定する
- 感染から心臓を守る
心膜切除術とは
心膜切除術は、この心膜を外科的に切除する手術です。心膜に異常が生じた場合、心膜を部分的または全体的に切除することで、心臓の機能を回復させ、貯留した液体の排出路を確保します。
どんな時に必要な手術なのか?
心膜切除術が必要となる主な病態をご説明します。
1. 心タンポナーデ
心タンポナーデとは、心臓の周りに液体が急速に、あるいは大量に貯留することで、心臓が圧迫され、正常に拡張・収縮できなくなる状態です。
心タンポナーデの原因:
- 心臓腫瘍(血管肉腫、心臓基底部腫瘍など)からの出血
- 特発性心膜炎(原因不明の心膜の炎症)
- 外傷(交通事故など)
- 凝固異常(血が止まりにくい病気)
- 感染症
心タンポナーデの症状:
- 呼吸困難、浅く早い呼吸
- 元気消失、虚脱
- 粘膜の蒼白
- 腹部膨満(腹水の貯留)
- 失神
- 致命的な場合、突然死
心タンポナーデは緊急性の高い状態であり、迅速な診断と治療が必要です。
2. 原因不明の胸水貯留
胸腔内(肺の周り)に液体が貯留する状態を胸水と呼びます。胸水の原因は様々ですが、心膜の異常によって引き起こされることがあります。
心膜性胸水の特徴:
- 心膜に炎症や腫瘍があり、心膜液が過剰に産生される
- 心膜液が胸腔内に漏れ出す
- 呼吸困難や咳などの症状を引き起こす
通常の胸水穿刺(針で液体を抜く処置)では一時的な改善にとどまり、すぐに再貯留してしまうケースでは、根本的な治療として心膜切除術が選択されます。
3. 拘束性心膜炎
慢性的な心膜の炎症により、心膜が硬く厚くなり、心臓の動きを制限してしまう状態です。これにより心不全を引き起こすことがあり、心膜切除術が必要となります。
心膜疾患の症状
心膜に異常が生じると、以下のような症状が現れることがあります:
- 呼吸困難:速く浅い呼吸、開口呼吸
- 運動不耐性:散歩を嫌がる、すぐに疲れる
- 咳
- 元気消失、食欲不振
- 腹部膨満:腹水が溜まることによる
- 体重減少
- 失神、虚脱
- 粘膜の蒼白(貧血や循環不全)
これらの症状が見られた場合は、速やかに動物病院を受診することが重要です。
診断方法
心膜疾患を正確に診断するためには、以下の検査が行われます。
1. 身体検査
- 聴診:心音の減弱、心雑音
- 触診:脈の弱さ、不整脈
- 粘膜色の確認
2. 胸部レントゲン検査
- 心臓のシルエットの拡大(心嚢液貯留による「丸い心臓」)
- 胸水の有無
- 肺の状態
3. 心エコー検査(超音波検査)
最も重要な検査です:
- 心膜液の貯留量を確認
- 心臓の動きの評価
- 心膜や心臓の腫瘍の有無
- 心タンポナーデの有無を判定
4. 心膜穿刺(心嚢穿刺)
- 針で心膜液を採取
- 液体の性状を分析(血液性、漿液性など)
- 細胞診や培養検査
- 一時的な症状緩和の効果もある
5. CT検査
- 心膜や胸腔内の詳細な評価
- 腫瘍の有無や位置の確認
- 手術計画の立案に有用
6. 血液検査
- 全身状態の評価
- 貧血の有無
- 凝固機能の確認
- 腫瘍マーカー(心臓腫瘍が疑われる場合)
従来の開胸手術の問題点
従来、心膜切除術は開胸手術によって行われてきました。
開胸手術のデメリット
1. 大きな切開
- 胸壁を10〜20cm程度切開(犬種や体格による)
- 肋骨の間を大きく広げる
- 手術創が大きい
2. 術後の痛みが非常に強い
これが最も深刻な問題です:
- 肋骨を広げることによる強い痛み
- 呼吸のたびに胸郭が動くため、痛みが持続
- 痛みのために深呼吸ができない
3. 呼吸困難のリスク
- 痛みによって呼吸が浅くなる
- 肺が十分に膨らまず、酸素化が不十分になる
- 肺炎などの合併症のリスクが高まる
- 心膜疾患でもともと呼吸が苦しい状態に、さらに術後の痛みが加わる
4. 合併症のリスク
- 感染
- 出血
- 術後の呼吸不全
なぜ胸腔鏡手術なのか?
これらの開胸手術の問題点を解決するために、当院では胸腔鏡による低侵襲手術を積極的に選択しています。
胸腔鏡下心膜切除術の圧倒的なメリット
1. 最小限の切開
わずか5mmの穴を3つ開けるだけで手術が完了します:
- カメラ用のポート:1ヶ所
- 手術器具用のポート:2ヶ所
これにより、従来の開胸手術と比べて創が圧倒的に小さくなります。
2. 痛みの大幅な軽減
- 肋骨を広げないため、痛みが格段に少ない
- 術後すぐから痛みが軽度
- 鎮痛薬の使用量も少なくて済む
3. 術後の呼吸困難を防ぐ
これが胸腔鏡手術の最大の利点です:
- 痛みが少ないため、深呼吸が可能
- 肺が十分に膨らみ、酸素化が良好
- 術後の呼吸機能の回復が早い
- もともと呼吸が苦しい状態の子にとって、これは非常に重要
4. 回復期間の短縮
- 術後すぐに元気を取り戻すことが多い
- 入院期間が短い(通常1〜3日程度)
- 早期の退院が可能
- 日常生活への復帰が早い
5. 合併症のリスク低減
- 感染リスクが低い
- 出血量が少ない
- 肺炎などの呼吸器合併症が少ない
6. 高齢犬や体力低下した犬にも適用可能
- 体への負担が少ないため、開胸手術では難しい症例にも対応できる場合がある
胸腔鏡下心膜切除術の実際
手術の流れ
術前準備
- 全身麻酔
- 適切な体位の設定(多くの場合、横臥位)
- 片肺換気の準備(必要に応じて)
- 手術部位の消毒
手術手順
- ポート挿入
- 5mmの小さな切開を3ヶ所作成
- カメラ用ポート:1ヶ所
- 手術器具用ポート:2ヶ所
- 胸腔内の観察
- 胸腔鏡を挿入
- 心臓、心膜、肺、胸腔内を詳細に観察
- 心膜液や胸水の確認
- 腫瘍の有無を確認
- 心膜液の吸引
- 貯留している心膜液を吸引除去
- サンプルを採取(細胞診・培養検査)
- 心膜の切除
- 専用の器具を使用して心膜を切開
- 心膜を部分的または広範囲に切除
- 横隔神経(重要な神経)や心臓組織を損傷しないよう注意深く操作
- 切除した心膜組織を回収(病理検査)
- 止血確認
- 出血がないことを確認
- 必要に応じて止血処置
- ドレーン留置(必要に応じて)
- 術後の液体排出のため、胸腔ドレーンを留置することがある
- 閉創
- ポート部分を縫合
- 小さな創なので、数針で終了
手術時間
症例により異なりますが、通常1〜2時間程度です。
術後の経過
術後管理のポイント
1. 疼痛管理
- 適切な鎮痛薬の投与
- 胸腔鏡手術では痛みが少ないため、鎮痛薬の使用量も少ない
2. 呼吸状態の監視
- 術後数日間は呼吸状態を注意深く観察
- 必要に応じて酸素投与
- 胸腔ドレーンからの排液量の確認
3. 胸腔ドレーン管理(留置した場合)
- 1〜2日程度で抜去することが多い
- 排液が少なくなったら抜去
4. 創部のケア
- エリザベスカラーの装着(傷を舐めないように)
- 創が小さいため、ケアも簡単
5. 活動制限
- 術後1〜2週間は激しい運動を避ける
- 散歩は短時間から徐々に
6. 経過観察
- 定期的な心エコー検査で再貯留の有無を確認
- 腫瘍が原因の場合、腫瘍の治療継続
予後について
心膜切除術の予後は、原因疾患によって大きく異なります。
良好な予後が期待できる場合
特発性心膜炎(原因不明の心膜炎)
- 心膜切除により根治が期待できる
- 再発率は低い
- 多くの犬で長期生存が可能
慎重な経過観察が必要な場合
心臓腫瘍(血管肉腫、心臓基底部腫瘍など)
- 心膜切除は対症療法(症状緩和)
- 腫瘍の根治治療が必要
- 追加治療(化学療法など)を検討
- 定期的なモニタリングが必要
重要なポイント: 心膜切除術は、心タンポナーデや胸水貯留による症状を劇的に改善し、QOL(生活の質)を大きく向上させることができます。腫瘍が原因の場合でも、症状緩和により快適な時間を過ごせるようになります。
心膜切除術の適応と判断
手術が推奨される場合
- 繰り返す心タンポナーデ
- 心膜穿刺で一時的に改善しても、すぐに再貯留する
- 原因不明の胸水貯留
- 拘束性心膜炎
- 全身状態が手術に耐えられる
慎重な判断が必要な場合
- 全身状態が非常に悪い
- 重度の心不全
- 凝固異常が重度
- 高齢で麻酔リスクが高い
ただし、胸腔鏡手術は低侵襲であるため、従来の開胸手術では難しかった症例にも対応できる可能性があります。


